自閉症・発達障害のある方を支援する福祉施設を大阪・高槻で運営

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第22回

共に生きること ~溝口弘さんに学ぶ~

 


 今、私は、福岡市で行われている日本知的障害者福祉協会が主催する「第19回全国グループホーム・ケアホーム等研修会」に参加していますが、その第1日目が終わりました。
 空虚な思いでホテルの自室に戻ってきました。それは、今日の研修会に限らず、参加者の多くの発言が制度的な問題点の指摘であり、国への批判が会場を覆うという状況が続き、具体的で生産的で実践的な支援や支援モデルの提案があまりにも少ないということへの失望感です。
 私は、そのような参加者の姿勢について、批判しているわけではありませんし、大いに様々な意見をぶつけて議論すべきだと思っています。
 しかしその前提として、「私たちの利用者に対する支援は十分であったのか、地域の障害のある人たちのニーズに真摯に向き合い、そのニーズに応えてきたのか」という捉え返しが必要であると思います。
 また、私たちの理念と実践の方向性を指し示して、今こそ具体的な支援実践を積み上げていくことが求められているのではないかと思っています。
 そのような思いの中で、ふと「株式会社なんてん共働サービス」の溝口弘さんとの出会いが思い浮かんできました。
 溝口さんとの出会いは、私が大学の3回生の頃、夏休みに滋賀県の「落穂寮」を訪れたのがきっかけでした。
 「落穂寮」は重い知的な障害のある子どもたちの入所施設で、溝口さんは指導員をされていました。
 私は、「落穂寮」で大学の同僚と共に、子どもたちと暮らしながら、炎天下でのグランドの整地作業を行っていました。
 当時の施設は、職員が施設敷地内の職員住宅に住み込み、子どもたちとの生活共同体的な雰囲気がありました。
 朝から夜まで寮に子どもたちと共に職員さんがいるという暮らしでした。
 後に聞いた話ですが、労働基準監督署など行政から8時間労働制に基づく勤務体制をとるようにとの指導があり、寮長が勤務体制の変更についての説明を職員にしたところ、全職員が「そんな断続的な勤務では子どもを見ることはできない」と反対したそうです。
 寮長が職員に頭を下げて、「どうか認めて欲しい」と、お願いしたそうです。
 そのようなエピソードから、当時の職員と子どもたちの暮らしぶりが分かっていただけると思います。
 溝口さんは私よりも4歳年上で、年齢も近いことから、よく私たち学生の世話や子どもたちのこと、福祉のことなど、様々な話をしてくださいました。
 何しろ当時の施設はおおらかでした。そのおおらかさを語るエピソードはたくさんありましたが、その中から少しご紹介します。
 作業が嫌いな子どもがいました。いつも作業の前になると部屋の押入れに潜り込んで寝ていました。
 あるとき、職員が先回りして押入れに入り、いびきをかいてタヌキ寝入りをしていました。
その子どもが、作業からのエスケープを決め込んで、いつもの押入れへ忍び込もうと押入れの戸を開けると、先に住人がいます。子どもは仕方なく作業に参加しました。
 職員は子どもを怒ったりしないで、子どもとの知恵比べを楽しんでいたように思います。
 また、お風呂に子どもと入っていた時のことです。
 湯船に浸かっているとき、ある子どもが言いました。
「先生! なんか臭いで!」
先生:「誰かがオナラしたんとちがうか?」
 そのとき、湯船の下からうんこが浮かび上がってきました。
 全員悲鳴を上げながら、慌てて湯船から上がり、もう一度体を洗いなおしましたが、先生も子どもたち誰もが怒ったり、誰かを責めたりしませんでした。
 夜になると毎晩、職員が一つの部屋に集まって来て、このような毎日の出来事を酒の肴にして、にこやかに語り合うという暮らしが流れていました。
 話を溝口さんに戻しますが、溝口さんとのつながりは、私が大学を卒業して、福祉施設の職員になってからも続きました。
 当時、「障害のある人たちと地域で共に生きる」という理念の実現を目指していた福祉関係職員が中心となり、「共に生きる運動連絡会」という組織をつくり、その理念の実現に向けて実践を行っている個人や団体を支えるための活動や啓発のための講演会などの活動をしていましたが、溝口さんと私は、そのネットワークのメンバーとして日常的に連携を深めていました。
 ある日のこと、溝口さんが、「松上さん、実は施設を辞めて、会社を作って、落穂寮の寮生と共に働きたいと思ってるんやけど」と、私に話しかけてきました。
 私は、溝口さんの今後の生活のことが心配になり、「溝口さん、施設を辞めんでも就労支援できるやん」と、返答しました。
 溝口さんは、「施設の職員として支援することもできるけど、共に働くということにはなれへん。自分も寮生と一緒に働いた中で、共にその収入で暮らしていかな『共に生きる』ということになれへんと思っているんや」と話され、その口調から決意の強さを感じました。
その後、国から貰う補助金を受けずに、溝口さんは、1981年9月に「なんてん共働サービス」を設立されました。
 そして、5年後には、株式会社として、「グリーンメンテナンス(緑の手入れと環境整備)」、「ビルメンテナンス(建物の維持管理)」を主業務として、現在まで約29年間にわたって、「共に生き、共に働く」という信念の下、障害のある人たちが働くという真の意味を社会に向けて発信され続けています。
 そんな溝口さんの実践が京都新聞に、当時の溝口さんの熱い思いとともに記載されていましたので、ご紹介したいと思います。

 

――施設に就職したころは、待遇も良くなかったけれど、重度の人たちと寝食を共にしてやってきた。そのうち、私たちの身分保障はよくなったが、障害のある人たちの実態は変わらなかった。そのギャップに、これでいいのか、と思いました。
長くやるうちに、どうしても指導とか訓練になる。『共に』という意識が薄れて、自分自身が差別的になっていくことに負い目を感じ出した。それで、もう一度、一からチャレンジしてみようと思ったのです。――

 

そして、障害のある人たちと普通につきあう事の意味についても、語っておられました。
    

――障害者の仕事については、そこそこでいい、と考える時代が長すぎた。裏返せば、彼らはもともと何もできないとみていて、可能性や自立することを初めから否定していたのです。その人の人格を尊重して、普通につきあう。それが障害のある人たちの可能性を広げることになるのです――
(京都新聞2007年7月3日 『ともに生きる』より抜粋)


 記事によると、社員は35人で、そのうち障害のある人が7人、障害のある人たちの給料の平均は6万円ほどであるとのことです。
 障害者基礎年金と合わせて月額13万円から14万円の収入となり、地域での自立生活が可能な状況であるとのことです。
 現在、障害者自立支援法が施行され、私たち事業者への報酬の支払いが、月額払制から利用者がサービスを利用した日に応じて報酬が支払われる日額払い制になりました。また報酬単価の低さの問題も事業者から指摘されています。
 そのことの是非はともかくとして、溝口さんは、国や行政から補助金を貰わなくても、すなわち、ゼロから7人の障害のある人たちに給料を支払い地域での自立生活を可能とされています。
 それに比べて、私たちは、サービス利用の報酬を頂いた上での支援です。溝口さん以上の成果を上げて当然だと思いますし、もし成果を上げることができないのであるなら、障害のある人たちに対しての適切なサービスを提供していないことになります。大いに反省すべきだと思います。
 そんなことを考えながら今日の一日の出来事を振り返りつつ、もう一度、溝口さんの思想と実践に学び、「共に生きる」ことの意味を考え、明日からの私自身の実践の糧にしたいとの思いを強くし、眠りにつくことにします。

掲載日:2008年07月10日