『この子らを世の光に』を改革の原点として
「この子らはどんな重い障害をもっていても、だれと取り替えることもできない個性的な自己実現をしているものである。人間と生まれて、その人なりに人間となっていくのである。その自己実現こそが創造であり、生産である。私たちの願いは、重症な障害をもったこの子たちも立派な生産者であるということを、認め合える社会をつくろうということである。『この子らに世の光を』あててやろうという哀れみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよ磨きをかけて輝かそうというのである。『この子らを世の光に』である。この子らが、生まれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬということなのである」(「糸賀一雄著作集Ⅱ」)
糸賀一雄先生が、1968年9月、講演中に心臓発作で倒れられ、お亡くなりになられてから、今年で40年を迎えることになります。
私は、糸賀先生の知的障害児・者支援における哲学、理念として集約された「この子らを世の光に」という言葉は、40年を経た現在もまだ輝きを放ちながら生き続けていると思っています。
しかし同時に、私は、糸賀先生が願っておられた「人間のほんとうの平等と自由は、この光を光としてお互いに認めあうところにはじめて成り立つ」という思い、それは、「人間が互いに理解し、認め合い、そして、愛情によって支えあう共生社会の実現」を意味している言葉だと思うのですが、その実現にはまだまだ至っていないと思っています。
糸賀先生をはじめとする障害者福祉の世界を切り開いた先人たちは、自分たちの目の前にいる一人ひとりの障害のある人たちと向き合い、自宅を子どもたちに開放し、私財を投入して障害者福祉の開拓に取り組んでこられました。そして国は、その先人たちの実践を後追いする形で、障害者福祉制度を創設してきたという長い歴史がありました。
そして現在、平成18年4月から障害者自立支援法が施行され、私たちは、障害者福祉制度改革が急激に進んでいる状況の中にいます。
私は、障害者自立支援法に対して、「共生社会の実現」という理念には賛成しつつも、その理念とあまりにもギャップのある制度設計に対して、理念に添った形での制度改正を行うべきであると日々思っています。
しかし同時に、障害者自立法に対して様々な異議を唱える前に、私たち自身の現在までの実践を振り返り、その実践について、深く反省すべきではないかと思っています。
それは、糸賀先生をはじめとする先人たちの「先駆的開拓的な実践が制度をつくり、制度を変える」というかたちで、国に大きな影響を与えてきました。私たちは、その実践を継承し、はたして新たな実践を積み上げてきたのかどうか、ということです。
言い換えれば、私たちがあまりにも国の障害者福祉制度の中に安住しすぎてきたのではないかとの反省です。
また私たちが障害者自立支援法の抜本的改革を唱えるとき、私たちの障害者福祉の「思想」、「理念」は何かということです。
現在、障害者自立支援法の改正をめぐって、私たち事業所が所属する日本知的障害者福祉協会と厚生労働省の間での政策論議がなされていますが、私は、双方の政策論議の基本となる「思想」、「理念」を感じ取ることができないでいます。
私は、障害者福祉にとって混沌とした状況にある今であるからこそ、糸賀先生をはじめとして先人たちが実践した原点に学び、その障害者福祉の「思想」と「哲学」を継承し、国の制度を超えた真に知的障害のある人たちが求めておられる支援サービスを先駆的開拓的に創造する働きを始めなければならないのではないかと思っています。
そして、そのような先駆的・改革的な実践なくして、真に障害のある人たちが望む福祉制度の創造は実現しないと確信しています。
私は、糸賀先生が障害者福祉実践の中で唱えられた「この子らを世の光に」という「思想」、「理念」を実践の原点としつつ、「障害のある人たちが社会の主人公として、人間としての輝きを放ちながら生きていける」そのような社会の実現に向かって、明日からの一歩を踏み出したいと思います。
「『この子らを世の光に』を障害者福祉制度改革の原点に」との思いを皆様と共有し、今後の協働を願いながら、今回の「一言」を終えたいと思います。
糸賀一雄先生の経歴(財団法人糸賀一雄記念財団ホームページより)
大正3年3月29日、鳥取市に生まれる。昭和13年3月、京都帝国大学文学部哲学科を卒業した後、昭和15年1月、滋賀県庁に奉職し、秘書課長などを歴任する。
昭和21年11月、戦後の混乱期の中で池田太郎、田村一二両氏の懇請を受け、知的障害児等の入所・教育・医療を行う「近江学園」を創設し、園長となる。
以来、あらゆる困苦と戦いながら、学園の充実を図るとともに、西日本で最初の重症心身障害児施設「びわこ学園」を設立するなど、多くの施設建設を手がけるとともに、中央児童福祉審議会・精神薄弱者福祉審議会の委員や全日本精神薄弱者育成会(手をつなぐ親の会)の理事として、国の制度づくりにも尽力する。
また、「障害の早期発見、早期対応」のための乳幼児検診システムの確立に寄与するとともに、多くの指導者を養成し、全国に送り出すなど、我が国の障害者福祉の基礎づくりに多大な業績を残している。
これらの取り組みにおいては、重度の障害児であっても、人間としての生命の展開を支えることが重要であるとの理念のもとに、「この子らに世の光」ではなく「この子らを世の光に」と唱え、人間の新しい価値観の創造を目指した人権尊重の福祉の取り組みを展開し、その精神は、現在もなお我が国の多くの福祉関係者に受け継がれている。
昭和43年9月17日、滋賀県児童福祉施設等新任職員研修の講義中に倒れ、翌日18日に死去する。
主たる著書に、「この子らを世の光に」、「愛と共感の教育」、「勉強のない国」、「精神薄弱児の職業教育」、「精薄児の実態と課題」、「福祉の思想」などがある。