Nさんの一言と私の結婚式
「松上さん、結婚しはるねんやろ?」と突然、利用者のNさんが私に話しかけてきました。
私が知的障害者通所授産施設「京都市のぞみ学園」に勤めていた作業中の出来事でした。
それから次のような会話が続きました。
松上:「そうや。来年の3月に結婚するねん。今、いろいろ準備してるねん」
Nさん:「うらやましいな。わたしなんか結婚でけへんねん」
松上:「何ででけへんのん?」
Nさん:「わたし、あほやしな。料理もでけへんし、掃除もでけへんし」
松上:「そんなこと関係ないで。お互いに助け合っていったらええやん」
Nさん:「そやけどやっぱりあかんと思うわ。それからわたし、今まで結婚式に
行ったことないねん。兄弟の結婚式も行ったことないねん。相手に、
家にあほな子がいることが分かったら迷惑になるから」
このNさんと私との話を聞いていた数名の利用者が、「わたしも結婚式に行ったことないねん」と、Nさんと同じ理由で、家族や親戚の結婚式に参列できなかった辛さや悲しさをそれぞれの表現で私に一生懸命話してくれました。
施設で働き始めて2年目の私にとって、障害のある人たちが背負わされている社会的差別の現実を利用者から直接投げかけられた初めての体験でした。
私は、あまりにも重い差別の現実を前にして、「そら辛かったやろな。悲しい思いをしたんやな」と、やっとの思いで返事をするのが精一杯でした。
そして、私はNさんの話を聞き、すぐにある決断をしました。それは、「私と毎日共に働き、過ごしている利用者の人たちは、私の生活、人生にとって大切な人たちだ。その大切な人たちを私たちの結婚式に招待したい」というものでした。それは、私の心の中から、ごく自然に湧き上がってきた決断でした。
すぐに私の決断を彼女に伝えました。当時知的な障害のある子どもたちの支援や療育に携わっていた彼女にとっても、当然のこととして、私と同じ思いで私の提案を受け止めました。
当時は実行委員会形式の結婚式が多く行われていて、私の場合も私と彼女の職場の同僚が自主的に実行委員会を作り、結婚式の計画を立て、その準備を進めていました。
その実行委員会のメンバーにも私の施設の利用者の人たちを招待することを伝え、計画の練り直しを始めました。
実行委員会では、「式の途中でのトイレの対応をどうしょうか?」「披露宴の長い時間辛抱できるやろか?」など様々な不安点が話し合われました。しかし、最終的には「どんなハプニングが起こってもええやん。なんとかなるわ」との結論となり、結婚式当日を迎えることになりました。
当時から「京都市のぞみ学園」の施設長の所先生は、日本基督教団の牧師でした。所先生は私たちの仲人を引き受けて下さった上に、「結婚式に沢山お金をかけんでええ」と私たちに話をして下さり、先生のご厚意で京都市伏見区にある「世光教会」を式場と披露宴会場として手配して下さり、牧師として、司式も執り行って下さいました。
結婚式には「京都市のぞみ学園」の利用者の人たち全員と私の前任施設である「京都市かしのき学園」の一部の利用者の人たち、職員の方々も含めて60人ぐらいの方たちが出席して下さいました。
実行委員の人たちも「紙芝居」とお話し、歌など、色々と趣向を凝らしての演出をしてくださいました。また利用者の人たちからも歌やメッセージ、花束や色紙のプレゼントを頂くなど、私たち二人の人生の思い出に残る素晴らしい結婚式になりました。特に利用者の人たちと私のギター伴奏で「てんとう虫のサンバ」を合唱したことが今でも強く印象に残っています。
出席者の方へは、以前彼女が勤めていた「滋賀県立近江学園」の子どもたちの手作りの「湯呑」を記念としてプレゼントしました。
そして、結婚式と披露宴は何のハプニングもなく、無事にお開きとなりました。
私はこの結婚式を終えて、つくづく経験の大切さを学びました。多くの利用者の人たちにとっては、結婚式と披露宴という数少ない経験の場であったと思います。しかし、一人ひとりの利用者の人たちがそれぞれの思いの中で、場の意味を感じ、最後まで参加して下さったのだと思いました。
その後「京都市のぞみ学園」には10年余り勤務しましたが、私の結婚式は、時々利用者の人たちの話題として登場しました。
私は、利用者の人たちの笑顔を見つめながら、私たちの結婚式が利用者の人たちの良き思い出となって、心の中に息づいていることに喜びを感じ、またお互いの人生を共に重ね合わせているということの幸せを噛みしめていました。
私に貴重な学びと経験を与えて下さったNさんは、天国に召されて行かれました。しかし、Nさんのこと、そしてNさんの結婚式での笑顔は、今でも私の心の中で、生き続けています。
(結婚記念日を迎えて)