自閉症・発達障害のある方を支援する福祉施設を大阪・高槻で運営

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第5回

私にとってのグループ就労の始まり

 


 30数年前、私が知的障害者通所授産施設「京都市のぞみ学園」で指導員として働いていた時に、全米知的障害者親の会の副会長さんが施設見学に来られました。副会長さんは医師だと記憶しています。施設見学をされた後の彼の第一声は、「この施設の利用者であれば、アメリカでは全て企業で働いている」でした。私は彼の第一声を聞き、愕然としました。矢継ぎ早に私は、「どの様に働いているのですか?」と尋ねました。彼は、「会社や工場の中に『ワークステーション』というのがあって、そこに毎日支援者とともに障害のある人たちがグループで働きに行っています」と答えました。今でいう援助者付きのグループ就労です。また暮らしについても質問しました。彼は、「障害のある人たちがグループで暮らす『グループホーム』と云うのがあって、そのホームの横に支援者の家があるんだ」と答えました。地域の中の企業で働き、グループホームで暮らすという支援が既に30数年前にアメリカでは実践されていたことになります。当時としては、私が得る初めての情報でした。私は彼の話を聞き、「私の求めていた実践、支援はまさにこれだ」と実感しました。
 すぐに実践に移すことを考え、利用者の就労先を探しました。幸運なことに、施設の近く、稲荷山の麓で「ミミズの養殖」を知的障害のある弟さんの労働の場として経営されていたFさんとの出会いがありました。Fさんの奥さんと弟さんの二人で仕事をされていて、人手が欲しかったこと、また弟さんの話し相手が欲しかったことなどの条件と私たちの思いが合致して、職員1名と4~5名の利用者のグループで毎日働きに行くことになりました。1人1日千円の賃金でした。当時の授産施設で得られる工賃額と比べて、大変条件の良い賃金額でした。その上、おやつ代として毎日千円頂き、お菓子屋さんでお菓子を購入してから養殖場へ出かけていました。利用者にとっては、施設の外で働けること、高収入であること、毎日好きなおやつが食べられることなど、喜び一杯の仕事でした。仕事は単純で左官屋さんが土などをこねる時に使う金の容器に牛フンと廃棄されたパルプ、水を混ぜ合わせ、それをミミズに与えると云うものでした。仕事は単純ですが匂いが体にしみ込み、養殖場の作業に行った日は、家に帰るなり妻から、「今日はミミズ作業やったんやろ」と言われるほどでした。ミミズはこの餌を食べ、糞を出すのですが、それが上級の草花の肥料として売れます。またミミズは漢方薬や魚釣りの餌として活用されます。しかし私たちの働きぶりが悪かったのか、いつの間にかミミズがいなくなりました。Fさんはミミズの次に今ブームになっているとのことで、アメリカタニシの養殖を始められました。当然のこととして、私たちの仕事もミミズからアメリカタニシに変わることになりました。結局その養殖も失敗に終わりました。
 この当時、信楽青年寮の池田先生が私に次のような話をして下さったことがあります。
 池田先生は、「私が近江学園にいた時に豚肉が高く売れるということで、北海道から貨車1台分の豚を仕入れたことがありましたんや。せやけど私ら福祉の人間は商売のことは素人やから、高く売れると思って仕入れた時から売値が下がり始めましてん。売られへんし、餌は食べるし、豚が病気した時は、私一緒に寝ましたわ。松上先生、作業で生きもんは止めとかなあきませんで」と、しみじみと苦労話をして下さいました。
 しかし私は、この初めてのグループ就労を経験して、グループ就労という支援形態は、「利用者にとって、社会の中で働くという自信とプライドを高め、特に重い障害がある利用者に対する企業の中で働くという実現性の高い就労支援のあり方だ」との確信を得ました。
 この体験から、「京都市のぞみ学園」では、大手製本会社内での梱包作業の1ラインの仕事を請け負いましたし、「京都市横大路学園」では、豆腐製造工場や大手食品会社流通センターでのグループ就労を経験しました。この取り組みの中で、グループ就労をしている利用者に触発されて、施設内作業の利用者が次々と自分の意志で、「私も会社で働きたい」と職員や家族に伝え、次々と利用者が施設から働きに出るという状況も生まれました。同時に職員の意識も変化しました。グループ就労を通して、今までの施設内での支援のあり方を見直すという意識も高まりました。
 面白い経験もしました。「京都市みぶ学園」で、近くの薬祖神社のお祭りで売る笹に虎などのお守りを付けるというスポットの仕事をしている時でした。神社の方から、「いつもお祭りの時に笹を売る巫女さん役を女学生のアルバイトの方にして頂いているんですけれど、なかなか見つかりませんねん」との話をお聞きした時のことです。早速私から、「もしよろしかったら、学園の利用者の女性にさせていただきませんか」と提案しました。商談がまとまり、3名の利用者がお祭りの日に、巫女さんに大変身して、笹を参拝者に手渡すというアルバイトに挑戦しました。利用者は大満足でした。「今まで仕事をしていて、こんなにたくさんの人から『ありがとう、ありがとう』と言われたことなかったわ。お弁当も二重折やってん」と満面の笑みで話してくれました。他の人たちから働きを「認められる」、「評価される」ことの大切さを彼女らから学びました。
 「京北やまぐにの郷」では、近くのアメリカンミニチュアホースの牧場でのグループ就労に取り組みました。事のきっかけは牧場オーナーのある提案から始まりました。ある年の12月初めの頃、突然社長さんが施設に来られ、「クリスマスの日に、サンタクロースの服装で馬に乗って、慰問に来たいんですけど。どうでしょうか?」との提案でした。私は率直に私の気持ちをお伝えしました。「お申し出は大変うれしく思います。しかし私たちにとって一番うれしいプレゼントは仕事なんです。社会人としてプライドを持って、社会の中で働きたいんです。どうか利用者を働きに行かせて下さい」と。
 社長さんは即座に、「分りました。私の考えは間違っていました。明日から来てください」と快諾して下さり、牧場でのグループ就労が始まりました。社長さんのこのあまりにも謙虚な姿勢に、頭が下がる思いがしました。
 「京北やまぐにの郷」は知的障害を伴う自閉症の人たちの支援に特化した施設でしたので、ミニチュアホースと自閉症の人たちの働きという話題性もあり、多くのテレビ局で放映され、雑誌にも取り上げられました。牧場では放牧場の整備や馬房の掃除などをしましたが、馬房掃除やバリカンの刃を研ぐ仕事などで障害特性が生かされ、良い仕事ができました。
 グループ就労が軌道に乗ったある日、「先生、実は私、仕事が始まった初日に『えらいこと引き受けてしもた』と正直、思いましてん。スコップを投げる人もいるし、土の上に寝転がる人もいるし、どうなるかと思いましたわ」と微笑みながら私に話をして下さいました。しかし社長さんは、そのような思いを持たれながらも、いつもにこやかに利用者の働く姿を見守り続けていただき、社長さんがお亡くなりになり、牧場が閉鎖されるまでの間、利用者の労働の場として牧場を提供してくださいました。
 「萩の杜」でもこのグループ就労の実践を引き継ぎ、開所時から生協の「安全食品流通センター」でのグループ就労を継続しています。
 私ども法人の日中活動・就労の場の名称は、「ジョブサイトひむろ」「ジョブサイトよど」と「ジョブサイト」の冠を着けています。「ジョブサイト」という名称は、「障害のある人たちの働きの場が施設の中に限定されるのではなく、地域の様々な企業の中に、働くサイト(場、敷地)が点在する社会を実現したい」との願いが込められています。私ども法人の理念「地域に生きる」の具現化を目指して、これからも地域の様々な企業の中で重い障害のある人たちの働きの場を創造していきたいと思います。「ミミズの養殖場」から始まった私自身のグループ就労の取り組みを、今後も法人職員や様々な就労支援機関、企業の皆様との理解と協働で積み上げていきたいと願いつつ、話を閉じたいと思います。

掲載日:2007年11月08日