故池田太郎先生との出会い
滋賀県「信楽青年寮」の故池田太郎先生に始めて出会ったのは、私が「京都市のぞみ学園」(知的障害者通所授産施設)で指導員をしていた20代前半の頃でした。「信楽青年寮」での一泊二日の見学で青年寮を訪れたとき、池田先生は作業服を着ておられ、一輪車に積まれたゴミを焼却炉で燃やしておられました。私がご挨拶と自己紹介をした後、「池田先生、今日はゴミを燃やしておられるのですか?」と尋ねたところ、池田先生は、「寮生のゴミを燃やすのは私の仕事なんです。まだ使える石鹸が捨ててあったり、ゴミから寮生の生活が見えるんです」とお話になられました。この話を聞き、様々な角度から寮生の生活を観察されている池田先生の素晴らしさ、偉大さをその場で感じたことをいまだに覚えています。
その夜私が宿泊させていただいている部屋にわざわざお越しになられ、深夜まで「近江学園」での実践の話を聞かせて下さいました。また若い私の利用者支援や施設運営についての思いに耳を傾けて下さり、様々な疑問にも丁寧に答えて下さいました。詳しい話の内容は覚えていませんが、池田先生と意気投合したことは覚えています。
翌朝、池田先生が、「松上先生、信楽学園の実践を見なければ私の実践は分からない」とお話になり、自ら軽トラックの運転をして下さって、陶芸会社で働く寮生の仕事振りや「信楽学園」の見学、案内をして下さいました。
池田先生は「ノーマライゼーション」の福祉理念が提唱される以前から重い知的障害のある利用者の就労支援を実践され、信楽の多くの陶器会社での就労を実現させてこられました。また地域での障害のある人たちの暮らしの支援としてのグループ・ホームの制度が欧米から導入される以前から青年寮の職員の自宅などに「民間下宿」という住まいの場を作り、地域での暮らしの支援を創造されました。
池田先生はこの実践の思想的原点として、知的障害のある人たちが「信楽の町に消えていく」という表現をされていましたが、自然な形での「共生社会の実現」を言い表した素敵な言葉であると思っています。私自身も利用者支援の思想的原点としてこの言葉を大切にしたいと思っています。
池田先生が私のような若い職員に深夜まで熱く語られ、自ら「信楽学園」などをご案内して下さったことは、滋賀県の福祉風土であると思っています。
私が京都府の「京北やまぐにの郷」施設長の時代に、滋賀県「一麦寮」の田村一二先生がお亡くなりになられました。京都新聞から取材があり、私に故田村先生についてのコメントを求められたことがあります。そのとき、「田村先生は自らの施設職員の指導・育成に止まらず、他施設の若い職員の育成にもご尽力された」とのコメントをしました。
滋賀県での施設の垣根を超えてごく日常的に施設長が若手職員を育成してきたことを端的に表す池田先生にまつわるエピソードがありました。
私が「びわこ学園」の職員宅を訪問していたときに、突然池田先生が一升瓶のお酒を抱えて訪れてこられたことがありましたが、このような風土が優秀な職員、施設長の育成へと繋がっているのだとそのとき実感しました。
現在、私は日本知的障害者福祉協会の人材育成・研修委員会委員として通信教育を通して「知的障害援助専門員」「知的障害福祉士」の養成に携わっていますが、池田先生との出会いが現在の私に影響しているように感じます。
障害者福祉制度改革が措置制度から支援費制度、障害者自立支援法へと目まぐるしく変化する中にあって、改めて池田先生との出会いを思い出し、先人の残した福祉の思想、実践を如何に引き継ぎ、新たな制度の中に生かしていくのかが、今を生きる私たちに課せられた社会的責任であると思うこの頃であります。